狸のしっぽ タイランド編  2005年


NO.20 2005.2.1 <愉気の会>


サワディーカ。新年を迎えて、あっという間に一ヶ月が過ぎました。

今年から、毎週一回自宅で「愉気の会」を開いています。
日本に居た時は、月に一回、講師の先生に来ていただいて「愉気の会」を開い
ていたのですが、こちらでは、私が習ったことをみなさんにお伝えして一緒に
やってゆくわけです。
私で大丈夫かなと、ちょっとは思いました。でも、とてもシンプルに、みんな
同じという気持ちで、やってみてなんかいい感じです。
野口整体の正式なやり方とは、ちょっと違う部分もありますが、参考までに書
いてみます。

はじめに輪になってすわります。
1.合掌して、目を閉じて、手の平で呼吸をします。(何も感じない人はただ
そのつもりでいるだけでも、ちゃんと気は流れます)
しばらくそれを続けてから、呼吸を合わせます。みんなで一緒に息を吸ってそ
の息を下腹に降ろして、ゆっくり息を吐きながら目をあけ、手を離します。

2.つぎに手の平を上に向けて、右手で隣の人の左手首を、ふんわり持ちます。
みんな肩の力を抜いてリラックスします。
そして、左手のほうから息が入ってきて、右手から息が流れていくということ
を意識して感じながら、ゆっくり呼吸をします。
(何も感じなくても、その時、みんなの気が一つになってゆき、一つの流れが
うまれます。)
しばらく続けてから、1の時と同じように、呼吸を合わせます。

それから、毎回、新しい人とかが加わったりするので、愉気と呼吸に関して、
簡単に説明します。
「私達は、どこかにぶつけて痛い時やお腹が痛い時など、思わずそこに手を当
てます。子供がどこか痛くした時も大丈夫だよと言ってさすってあげたりしま
す。「愉気」はそういうことの延長で、自分や家族が少しでも楽になるといい
ねというようなものです。
誰にでもできることで、特別なことではありませんが、こんな風にみんなで練
習したり、できるだけ自分や周りの人に手を当てる機会を多くしてゆくと、手
が育ってきます。
大切なことは、何も考えないで、リラックスしてぽかーんとして手を当てると
いうことです。治してあげようとか、心配だとかも思わずにただふんわりと手
を当てるだけです。自分の気をあげようと思うと疲れてしまうし、心配しなが
ら当ててると心配な気持ちが伝わってしまいます。」

「呼吸を一つのバロメーターにすることを練習します。今日のパートナーを決
めますが、全員と握手してみて、その中で、一番息が入ってくる感じがする人
と組んでください。深く考えずに、瞬間にふっと感じたことを目安にしてくだ
さい。」
(誰だかわからないと言う人、誰と誰だと思うと言う人など、みんなが感じた
ことを言う中で、毎回全員納得で、その日のベストパートナーが決まります。
これは不思議で面白いなぁと思います。)

そして、まず頭をゆるめます。
一人が正座して座り、愉気をする人がその人の左側に膝立ちで座ったり、イス
に座ったりして、その人の頭頂と後頭部に軽くそっと手を当てます。あとは二
人とも何も考えずにポカーンとしているだけで、頭の緊張がゆるんできます。
しばらくそれを続けてから、1の時と同じように呼吸を合わせます。
そして交替します。
(愉気のいいところは、やってもらう人もやってあげてる人も、ともにふんわ
り気持ちよくなってくることです。それは人の心や体が感応し共鳴し、いのち
が交流するからです。)

つぎに、一人がうつぶせになって、愉気する人がその人の左側に座って、その
人が当ててもらいたいと感じる背中の二箇所に手を当てるか、もしくは、イス
に座ったり、自由な姿勢で、その日その人がここに当てて欲しいというところ
に手を当てます。
しばらく当てていると、たとえば呼吸がふっと深くなったりして、何となく今
日はここで終わりかなという感じがします。
そして、息を合わせてから交替します。

これで終わりです。ひたすら「リラックスして、ふんわりとね。」と、声をか
けるだけで、手を当ててもらってる人は、気持ちがよくてとろとろしてきます。
そして終わる頃にはみんな温泉に入った後のようになって満足します。

「愉気の会」を始めたのは、去年体調をくずし、養生のために「気功」を習い
始めたのがきっかけです。そこで出会った友達とナンさんと、さらに声をかけ
た友達が学びの仲間です。
今回集まったメンバーは、気功なども学んでいるし、愉気に関してもよく理解
している人達だったのでとても素晴らしい場ができました。
でも、これからは、何もわからなくても、自分や家族のために学びたいという
人に、とっても簡単で、みんなが幸せな気持ちになれることとして、「愉気」
を伝えてゆこうと思っています。

私は、「愉気」というものを、怪我や病気の治療のために行なうという風にと
らえないようにしています。その人の痛みにそっと寄り添って、その人のいの
ちの力を応援するものと思っています。

タイに来て、ナンさんとお寺に行って瞑想をするようになったことで、色々な
ことがみんな同じだということがわかってきました。
私にとっては、瞑想も祈ることも愉気も、そこで起こっていることはみんな同
じように感じます。
それは、頭で考えることをやめて、心と体で宇宙にみちているいのちの流れを
感じて、それと一つになることかなと思います。
そしてそれはとても難しいことでもあります。
だからこそ私は「愉気」をすることで、少しずつ自然に、そういうことを身に
つけてゆくのもいいなぁと思うのです。

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災害や戦争で苦しむ人達のニュースが伝えられるたびに、私にできることは何
だろうと思いました。

置かれた場で縁あって出会う人達と交流してゆくこと。自分にできることでそ
の人達のいのちが元気になってゆくように応援することかなと思いました。

大切なことは、人と交流することで、そこにあかるく平和な雰囲気(波動)が
生まれ、それが周りに広がってゆくことだと思います。
私達一人一人がそんな小さな場を大切に育ててゆくことが、いつか世界全体が
そういう場になってゆくことにつながるのだと思います。



NO.21 2005.3.1< イサーン ウドンタニ  前篇 >


今回は、ナンさんの生まれ育った故郷を訪ねた、体験記です。

<その1 >  

2月17日、私とナンさんは、明世さんというタイ語の話せる若い日本人女性
を誘って、バンコクから飛行機で一時間程の、ウドンタニに行きました。
飛行場には、ナンさんのお姉さんと妹さんが、近所の人が運転する車で迎えに
来ていました。
まずは、大きなスーパーに行って、昼食をすませ、おみやげがわりに、食料品、
調味料などを買いました。

始めに、彼らが連れて行ってくれたのは、「バーン・チアン」というところで
した。ここは埋葬された人骨とともに素焼きの土器などが発見された場所です。
その土器の模様はこの地方独特のオリジナルなもので、とても美しいデザイン
です。
その模様を見た時、私はふと、世界の各地で発見されているうずまきをアレン
ジしたような古代の模様とどこか通じるところがあるような気がしました。
最近の研究では、それらが紀元前3600年から紀元200年頃のものと推定
されているそうですが確かなことは不明とのこと。
不思議で美しいつぼの模様を描いた人達はどんな人だったのか。そのアイデア
はどうして生まれたのか。と思いをめぐらせると、なんだかここが特別な場所
みたいな、ワクワクする気持ちになった私でした。

次に彼らが連れて行ってくれたのは、森の中にある「ワットタムコングペン」
というお寺でした。
そして、今は亡くなった、このお寺のお坊さんがスゴイ人でした。
その方は、結婚して七人の子供がいた人で、その後出家して高僧となったので
す。
かつてこのあたりは、虎や象などの動物が住む森だったのですが、大きな虎も
この方の前では猫のようにおとなしかったそうです。
また、タイの国王も、ウドンタニに来られる時は、この僧侶のもとを訪れたと
いうことでした。
この方が亡くなり火葬された時、不思議なエネルギーが光となって発せられた
ということで、不思議で美しい光の写真がありました。
さらに、この方の骨は、一年程で変化をとげ、まるで宝石のような、ピンク色
をした丸い形の石になったのです。
その写真と、小さな骨が展示されていましたが、私は、人の骨がそんな風にな
るとは知らなかったので感動しました。
ナンさんは、そういうことを知っていて、深い瞑想をされる高僧とか、心がと
ても美しい人の骨はそんな風になるのだということでした。

さらに私達は、この森の中につくられた素晴らしい場所に行きました。
そこは、巨大な岩石をそのまま残し、そこにできている空間に仏像などを置い
た祈りの場で、大きなエネルギーを感じる不思議な場所でした。
私はふと、奈良の山奥にある「天河神社」のことを思い出したりもしました。

ということで、初めて出会う色々なものにワクワクしながら、田舎道を走って
ゆくうちに、やがて日も暮れてきました。

 <その2 > 

まるで、50年ほど昔にタイムスリップしたような、景色の中を車が走って行
きました。畑とバナナの木などがあるばかりの所を走り続けて、小さな集落の
ような所に着きました。
そこが、ノングウァソンという村の中にあるナンさんの家の前でした。
高床式の木造二階立て、トタン屋根の家の前には大きな水がめが三つ置いてあ
りました。

家の中は、区切りのないワンルームで広々としていました。そしてタイル張り
の床にゴザをしいて座ります。
ここにはナンさんのお姉さん夫婦と、その娘夫婦と赤ちゃん(五ヶ月)が住ん
でいます。
台所は部屋と区切られていて、床はコンクリートでガスのボンベはありました
が、流し場のようなものはありませんでした。
外に、井戸水を汲み上げる水道があり、この水は洗濯やお風呂に使います。そ
して、水がめにためた雨水が飲料水や料理に使われるのです。
でも、雨が降るのは一年のうちの数ヶ月です。
風呂とトイレは外の小屋で、四角いコンクリートの水槽の横にしゃがんでする
スタイルの便器があります。井戸の水を入れた水槽の水を汲んで体を洗ったり、
トイレを流したりします。

私と明世さんは二階の部屋で少し休ませてもらいました。ここは板張りの床で
娘さん夫婦が寝る場所がタンスとカーテンで区切られていました。
天井が高くて、広々としていて、山小屋のような雰囲気がして、私は楽しくて
ワクワクしてきました。ゴザをひいて寝転がって、明世さんと色々なことを話
しました。
明世さんは、22才。バンコクにある大きなお寺に寄宿して、タイ語を勉強し
ながら、タイ人のお坊さんに日本語を教えたり、寺を訪れる日本人の案内をし
たりしている人です。今年の一月にナンさんとそのお寺に行った時に出会って、
友達になったのです。親子ほども年は違いますが、私達は同じようなことを考
え、やってゆきたいと願っている、同じ魂を持った仲間という感じがしていま
す。そしてタイ語がほとんど話せない私をサポートしてくれる心強い友達です。

ナンさんは、家族の人達のために作ったとても美味しいらしい赤蟻のスープは、
避けて、私達の口にあうように作ってくれた魚のから揚げにピリ辛ソースをか
けたものと、魚ときのこのスープと空心菜の炒め物をごちそうしてくれました。

そして、いつのまにか、親戚や近所の人など数人の人達が集まっていました。
私達を入れて十五人ほどで、まずは歓迎の儀式が始まりました。
一人一人が、祈りごとを唱えながら、私達の手首に、白い糸を結んでくれるの
です。この儀式は結婚式の時にも行なわれます。また、お寺ではお坊さんが手
首に糸を結んでくれたりします。

ところで、今回の旅行で私が一番楽しみにしていたのは、「ケーン」という楽
器の生演奏でした。それは竹を何本か束ねた形をしていて、日本の雅楽で使う
「笙」という楽器に似ています。
そして、この日、ナンさんの妹さんがイサーンの音楽を演奏するグループの人
に声をかけてくださって、「ケーン」を演奏してくれる人が一人来ていました。

私達は素晴らしい演奏を楽しみました。そして、ナンさんの妹さんが立ち上が
り、その演奏に合わせて、踊りの手の仕草をしながら歌いました。
それを見て私も踊りたくなり、立ち上がって一緒に踊りました。
みんなびっくりして喜んでくれました。少しだけのつもりが、みんなにもっと
踊って見せて欲しいと言われ嬉しくなりました。
ここに至ってタイダンスを習ったことが、役にたちました。

私はナンさんの家に集まった人に話しかけられても、タイ語がわからなくて、
何にもしゃべれずただ微笑んでいただけでした。それがもどかしかったのです
が、踊ることで心が交流するのを感じました。

さらに、妹さんの歌を聴きながら、いよいよ本番だぞ。と、私は思いました。
私はタイに来て、CDなどでイサーンの音楽を聴いた時、日本の民謡に通じる
ものがあると思ったのです。それで今回、ウドンタニのみなさんへのお土産と
して、一つの歌を用意してきたのです。
「今度は、私の故郷の歌を歌います。この歌は海で魚を採る人達の歌です。」
と言うことを、タイ語に訳してもらってから、私は身振り手振りを付けながら
「ソーラン節」を歌ったのです。
サヌック・サヌック(面白い!)と言ってみんな大喜びでした。

「明世さんも何か歌ってよ。」と、私は声をかけました。
「え、私もですか。」と言いつつ、彼女は日本の女性歌手「キロロ」の歌を
歌ってくれました。
「奥さん、あの歌も歌ったらどうですか。」と、いつも私の歌を聴いている
ナンさんが、声をかけてきたので、私の一番好きなタイの歌「サーオ チェ
ンマイ」をタイ語で歌いました。
それから「さくら さくら」も歌いました。そして明世さんももう一曲歌い
ました。

時々休みながら、ケーンの演奏と歌と踊りは続いてゆきました。
そして、私はふと、ケーンの演奏に合わせて歌ってみたくなりました。
言葉はいらない、声のひびきだけでケーンのメロディに合わせてゆこうと、
思ったのです。

その即興の歌は、自分でも不思議なくらい、力強く美しくひびきました。
体中が楽器になったみたいで、私はとても気持ちが良くて楽しかったです。
それを聴いた近所の人が何か歌が聴こえたのでと言って、のぞきに来たりも
しました。みんなも、盛り上がって喜んでくれました。

そして最後は、日本のイサーン(東北)地方である山形県の「花笠音頭」を
歌いました。みんな笑顔で手拍子をして掛け声も真似してくれました。

その夜は、二階の部屋に、ナンさんが蚊帳をつってくれて、その中で寝まし
た。まるで夏休みに田舎の親戚の家に泊まりに行って、おおはしゃぎして、
疲れて眠る子供のような気分でした。      (次号へつづく)

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バンコクに住んでいるだけでは、タイという国のことを充分に感じることはで
きないと思っていました。そして、友達になったナンさんの故郷、イサーンの
ウドンタニはどんなところなのか行ってみたいと思っていました。
本で読んだり、ナンさんの話を聞いて、そこがとても貧しい地域だということ
はわかっていましたが、実際に自分の目で見て、感じてみたかったのです。

どうなることか想像もつかない状態で旅は始まりました。なりゆきまかせで
感じるままに行動してゆくのはいつものことです。

私は、初めて出会うイサーンの人達に、何をプレゼントしようかと色々考えま
した。そして二つのものを用意したのです。一つは「ソーラン節」でした。
そして、もう一つは、何だと思いますか?
ふふふ、こちらも、たぬきらしいアイデアですよぉー。


NO.22 2005.3.14 < イサーン ウドンタニ  後編 >


<その3>

バタバタバタバタバタ! バタバタバタバタバタ! 威勢のいい羽音。
コケコッコー! コケコッコー! コケコッコー! 
まだ薄暗いのに、そこらじゅうのニワトリの賑やかしい大合唱が、新しい朝の
始まりをつげる。
そして、私達が毛布にくるまってぬくぬくしていると、ナンさんが、「タンブ
ンに行きます。」と、誘いにきた。

外に出ると、近所の人が炊きたてのごはんなどを持って、並んで待っている。
中には昨日の夜の顔見知りの人もいて、私達のことをうわさしていたりする。
バンコクとは違って、ピンピンに元気な犬がそこらじゅうを走ったりじゃれあ
ったりしている。

やがて、数人のお坊さんが托鉢に来たので、私達も昨日、スーパーで買ったパ
ック入りの牛乳、りんご、インスタントラーメンなどを鉢の中に入れる。
この光景は毎朝くり返され、時によってお坊さんの人数が増える時もあるとの
こと。

ナンさんが昨日のスープの残りで作ってくれたおかゆを食べてから、家から少
し離れた所にあるとうもろこし畑に行った。
そしてその時、私は、この土地の貧しさを、実感をもって理解した。

バンコクにいて、お姉さんからお金を送って欲しいという電話があるたびに、
どうしてお姉さん達はナンさんに頼ってばかりいるのだと思っていた。ナンさ
んも、もう仕送りはやめて自分の老後のためにお金を貯えたいと言っていた。
でも、ナンさんの故郷に来て、お姉さん達が畑で働き続けても、お金が入って
こないということがよくわかった。
山も川もなく、水不足の土地で、お金に替えられるような作物もない。ニワト
リを飼い、自給自足の生活をするのがやっとで、何かあればバンコクで働くナ
ンさんのお金を頼りにせざるを得ないのだ。
家を建てたのも、姪の面倒をみて結婚式をあげさせたのもナンさんだった。

今思い出すと、ナンさんの家のガラーンとして広い部屋にあったのは、テレビ
と冷蔵庫と扇風機と、衣類などを入れる戸棚と、古い足踏みミシンと、赤ちゃ
んが眠るハンモックぐらいだった。
そして、以前みせてもらった姪の結婚式の写真でも、新婦はきれいなドレスを
着ていたけれど、新郎は普段着のジーパンにワイシャツを着てサンダルばきだ
った。

部落の中で一軒だけ、シャレたつくりのきれいな家がある。その家に住む女の
人は、きれいで、着ている服も部落の人とはちょっと違う。
その人は日本人のおめかけさんとのこと。

元気なニワトリがそこらじゅうを歩き回っていて、どこか懐かしく心やすらぐ
田舎の景色。
ナンさんの故郷で、私はしみじみと、その土地に生まれた人達の人生を思った。 

そして私達は、今回の旅の目的の一つである、ナンさんの身分証明書の書き換
えにつきあって、村の役場に行った。
色々な手続きが終わって、最後に証明書に貼る写真をとることになったところ
で、「何?!」という問題が生じた。
この日ナンさんはノースリーブのブラウスを着ていたのだけど、袖のある服で
ないとだめだというのだ。
さっそく、トイレに行って、私が着ていた半袖のポロシャツと交換したけれど、
できた写真を見ると、肩のあたりまでで袖なんて写っていないので、みんなで
大笑いした。

    <  その4 > 
  
今回の旅のもう一つの目的は、ナンさんの通った小学校やその他の学校などを
見学することであった。
ナンさんに案内を頼んだところ、お姉さんと妹さんも一緒についてきた。

始めに行ったのはナンさんの家から一番近い学校で、六年生の教室ではテスト
中だった。廊下からそっとのぞいて帰ろうとしたのに、めずらしい日本人が来
たということで、先生が、中に入って英語で子供達に話してくださいと言う。
 
私は日本からバンコクに来てナンさんと友達になったこと。ナンさんがとても
いい人でナンさんが好きになったこと。それでナンさんの故郷を見てみたいと
思って、ここに来たということを話した。
テスト中なので、手短に話して教室を出ると、次は低学年の教室に案内された。
こちらでは英語が通じないので、明世さんがタイ語で少し話をしてくれた。
そして私は、いよいよ本番だぞと思った。

今回、タイの子供達に会う時、何をお土産にしようと、私は色々考えた。
はじめは、ノートとか鉛筆にしようかなと思ったのだけど、何人に会うのかわ
からないし、本当に欲しいものは聞いてみないとわからない。
ということで、私は日本に帰った時に、いつかタイの子供に見せてあげたいと
思って買ってきた一冊の絵本のことを思い出した。その本を子供達に、読んで
あげようと思ったのだ。

私が選んだ一冊は、「はらぺこおあむし」
私は、タイ語の先生に頼んで、文章をタイ語に訳してもらい、さらに発音記号
をふって読み方を教えてもらった。そして、ナンさんや運転手さんに、読むの
を聴いてもらったりして、準備してきたのだ。
私の発音は少しあやしいかもしれないけれど、ステキな絵があるので見ればわ
かるからマイペンライだ。
そして、子供達は面白がって、喜んでくれた。私も嬉しかった。
それから私は、子供達に、みんなが一番好きな歌を歌ってもらった。
それは子供が集まる場面で、いつもかかっていた陽気で楽しい歌で、私にはお
馴染みの歌だったので一緒に手拍子をしたりした。

次に同じ敷地内にある中学校に行って、20分ほどの時間で生徒達と交流させ
てもらった。
ここでも英語で語りかけると、生徒達はにこにこ顔で積極的に答てくれた。
私は、ここに来たわけと、自分がタイという国がとても好きだということ。タイ
という国のことをもっと知りたいと思っていることなどを話した。
そして「私はタイの人達の笑顔がステキだと思います。タイの人達は美しい目を
していてとてもチャーミングだと思います。」というと、元気そうな男の子から
「日本人もそうですよ。」と、言われてしまった。

次に、私達は4才ぐらいの子供達が通う、幼稚園のような所に行った。広い平屋
の建物に40人ほどの子供達と数人の先生がいた。
遊具はなく、おもちゃもほとんどなかった。私はさっそく「はらぺこあおむし」
を読んだ。子供達は喜んでくれた。こんな絵本を見るのは初めてかもしれない。
私と明世さんは子供達と遊ぼうと思って、「だるまさんがころんだ」を説明した
のだけど、うまく伝わらなくてだめだった。それで、次に輪になって「ハンカチ
落とし」をやった。こちらのほうは、面白がってやってくれる子、恥ずかしがっ
て動かない子、と、色々だった。

そして、いよいよナンさんの通った小学校に行った。ここは最初に行ったところ
よりも、ずっと貧しい小学校だった。古い教室には授業で使う備品がほとんどな
かった。お昼休みで子供達がいないので、先生が色々案内してくれた。
そして、本当は教室にテレビが欲しいとか、パソコンが欲しいと言った。
子供達が絵を描いたりするA4の紙がたくさん欲しいとも言った。
そして、図書室を見せてもらった。本がほとんどなかった。
「色々な本を子供達に読ませてあげたいね。」と、私達は思った。
そこに来ていた子供達に、どんな本が読んでみたいと聞くと、「マンガ」と答え
た。先生は、「マンガはだめです。」と、言っていたけれど。マンガも読ませて
あげたいなと思った。

そろそろお昼時になっていたけれど、ナンさんは、べつの部落の、もっと貧しい
学校も見て欲しいと言う。
私達はでこぼこ道を走って、その学校に行った。
そこは本当に、さらに貧しかった。教室に電気がない。
「蛍光灯とか寄付したいよね。」と、私が言うと、明世さんは、「でも、そのた
めの電気代がなかったら、結局使わなくなるよ。」と言う。

学校があっても通えない子供もいるだろうなとも思う。制服などを買うお金がな
かったり、家の仕事を手伝うためにこれない子もいると思う。

案内をしてくれた先生が、一冊の名前などを記録する台帳を出して、何か書いて
くださいと言った。
そして、「この教室は日本人が建ててくれたのです。」と言った。
驚いて、その台帳のページをくってゆき、そこに日本語の文字をみつけた。
そこには、2001年に、三人の日本人がここを訪れたこと。そして「日本から
40人の仲間を連れてまたここに来る。」ということが記されていた。

そして約束どおり、たくさんの日本人がやってきたのだ。部落の人達の家に寝泊
りして、この土地の人と協力して、三つほどの教室がある平屋だての建物を建て
たのだ。
彼らは、自分の名前と、この地での体験の感想と、十年後にまたここを訪れると、
書き残しているだけで、どんなグループの人達なのか、連絡先もわからない。
先生に聞いても、その後はとくに交流もないと、あっさりしている。
こんな、イサーンの奥地までやって来て、風のように現れて、風のように去って
いった日本人が居たことを知って、私達は熱い感動に包まれた。
スゴイぞ日本人。嬉しいよね。

私達はその台帳に名前と感想を記しながら、できればこの学校にも、いつか本を
届けてあげたいなと思った。
そして先生は、教室を建てた人達が、校庭の一角に残していった小さなプレート
を見せてくれた。そこには次のように記されていた。

   子供は地球の宝物、光り輝く未来のために。
TOKAI Gloobal Training School
   今!希望への旅立ち


そして私達は、はらぺこだった。昼の時間はとうに過ぎていた。暑いし疲れても
いた。ところが、また一人別の人が現れ、その日本人のグループは別な場所にも、
もう一つ学校を作ったのでそちらも見て欲しいと言った。
そして私達は、そちらの学校も見に行った。こちらは一階の部分だけを日本人が建
てて、その後、二階を作ったということで、二階建ての建物になっていた。
そして、前の学校と同じプレートがあった。

やっとナンさんの家に帰った私達は、朝の畑でとれた、ちいさなもちきびのとう
もろこしを食べた。
それでもはらぺこだった私達は、ナンさんが作ってくれたチャーハンとスープを
食べた。
おなかがいっぱいになって、一休みで、もう帰る時間になった。
庭の木陰のところに集まってくつろいでいるナンさんの親戚のおばあちゃんや、
子供達にお小遣いをあげたり、近所の子供達に、部落に一軒ある雑貨屋さんで
お菓子を買ってあげたりして、私達はナンさんの故郷を後にしたのである。

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ナンさんの故郷を訪れたことは、深い体験でした。
そこで感じたことをしばらく心の中であたためていました。
その後、インターネットで調べて、教室を作った人達のことがわかりました。
こんどウドンタニに行く時は、子供達に本をプレゼントしたいと思っています。

一番はじめに「はらぺこあおむし」を選んだのにはわけがありました。
日本に居た時、子供達の情操教育に関する活動をやっていた、とてもステキな友
達がいました。そして、ある日その人と「はらぺこあおむし」の話でとても盛り
上がって楽しかったことがあったのです。この本は彼女のおすすめの本でした。

「はらぺこあおむし」は、とてもシンプルに、美しく感動的に、いのちの素晴ら
しさと可能性を、伝えてくれる絵本だと私は思います。

私達は、それぞれにとって必要なものを食べて成長し、さなぎの殻を破って、
驚くほど美しい蝶となって、自由にはばたくのです。


NO.23 2005.4.29 「いのちに出会うこと」


私には、いつ、何処にいても、変わらないことがあります。
それは、自分を知ってゆく旅を続けているということです。起こってくる出来
事、出会ってゆく人達に関わってゆく自分の心を、見つめることで、さらに深
く自分を知り、自分を育ててゆくということを続けています。
それは真の自分を愛するということでもあります。

最近、友達が紹介してくれた一冊の本の中に、生まれた時から20代頃までの
自分に、順番に出会ってゆくという方法が書かれていました。
私は、赤ちゃんの時、子供の頃の自分の写真を思い出し、その頃あったことで
思い出せることを思い出しながら、そのとき自分の心が感じていたことを、感
じててゆきました。

たとえば、三歳から五歳の、幼い私の心の中には、満たされない想いがたくさ
んくすぶっていました。
弟ができて母親の気持ちが自分から離れて寂しい私。弟に嫉妬する私。弟の世
話をするように押し付けられて、うっとおしく感じている私がいます。
そして、そんな私の気持ちをわかってくれる人が誰もいなくて、心の中に暗く
すねた想いをくすぶらせている傷ついた幼い心が、痛いほどに感じられます。

「そうだったんだ。そういう寂しく辛い思いを、わかって欲しかったんだね。
でも、ずっと誰にもわかってもらえなかったんだ。でも、今の私なら、あなた
の心がよくわかるよ。全部を受けとめてあげられるよ。」と言って、私は想像
の中で幼い自分自身を抱きしめて、涙を流しました。
より実感をもってそのことを体験するために、私はくまのぬいぐるみを抱いて、
それを幼い自分に見立てて、やさしくなでてあげたりしました。

今ここを生きている私の心の奥に、目には見えないけれど、色々な感情や苦し
みをかかえた、子供時代の私が確かに存在しているのです。
そして、自分では自覚できない無意識の言動の中に現われてしまうのです。
私は、自分の中にいるそんな子供の一番の理解者になって、その子供を守り、
励まし、勇気づけてあげたいです。
それは自分を愛することです。

先日、海に行きました。

泳ぐのは得意ではないので、海の中で、ただぷかぷかと浮いていました。
それがとっても気持ちがよかったです。
体の力をぬいて、海に身をゆだねて、波にゆられていると、海と自分が一体に
なったような気がしました。
自分の体の境界線もなくなって、自分が海であるかのように感じてもみました。

そして、宇宙に充ちている「いのち」と私との関係も、こんな風なのかなと思
いました。


私という「いのち」は、なぜ生まれてきたのだろう。

私は、創造する喜びを体験するために、この肉体に宿った。

私は、創造したものを、五感等で感じる喜びを体験するために、人間として生
まれてきた。

見る、聞く、触れる、味わう、嗅ぐことで感じる喜びは、自分を知る喜び、自
分を愛する喜びである。

人が、男と女に分かれ、色々な人種に分かれ、色々な国に分かれたのは、違い
を楽しむ喜びのため。

「いのち」が輝く時は、喜びを感じている時。

宇宙に充ちている「愛」は、「いのち」を輝かすエネルギー。

「祈り」とは「いのち」本来の輝きを取り戻すこと。愛を呼び起こすこと。


赤ちゃんというのは、「いのち」がそのまま輝いている存在である。

みずみずしい、「いのち」そのものだった私は、どこに行ったのだろう。
今ここを生きている私の中に、確かに存在しているのである。

色々なことがあって、心を閉ざし、体を閉ざし、いのちを閉ざしてきたけれど、
色々な想いや感情が、黒雲のように「いのち」をおおいつくしているけれど、
私という「いのち」はその輝きを失うことなく、今ここを生きている私の中に
確かに存在しているのである。

その私の「いのち」にこそ、出会ってゆこうと思う。
それが、真の自分を愛するということです。

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今日は、私の誕生日です。自分で自分を祝福しています。

何かプレゼントが欲しいですかと聞かれたら、
「今一番欲しいものは、勇気です。」と、答えます。
それが幻想にすぎないと、頭ではわかっていても、私の中に恐れがあって、私の
自由をはばんでいる心の壁を未だに越えられないでいます。
もう、何度も、勇気を出して、いくつもの壁を越えてきてはいるのにね。ふふふ。

誕生日を迎えるにあたって思ったことは、私は本当に、この世界からたくさんの
プレゼントをもらい続けているなぁ。ということです。
感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

いつまでたっても、迷惑をかけっぱなしのわがままな私ではありますが、それは
それとして、私自身をこの世界へのプレゼントにしてゆきたいですね。ふふふ。



NO.24 2005.6.12  父との出会い(札幌)


サワディーカ。バンコクに住むようになって丸二年が過ぎました。
タイでの生活は、私の心をより自由にしてくれるものであったと思います。
タイ人の人生観、生き方から、私達日本人に欠けているものを学ぶことができ
たのは幸せなことです。それによって自分が変わってゆくのが嬉しいです。

先日、久しぶりに生まれ故郷の札幌に帰り、父と再会しました。
そしてその時、父の姿を通して、自分の姿がはっきり見えてきました。

母が亡くなって三年後、父が七十歳で再婚し、義母と暮らすようになったこと
は、私にとって、嬉しいことでした。持病をかかえて一人で暮らす父のことを
心配しなくてすむという心の解放がありました。
色々、問題があっても、年老いた二人が互いを支えとして共に生きることはい
いことだと思っていました。

やがて、年に一度帰るたびに義母の愚痴を聞かされるようになり、がんこで自
分を変えない父に意見を言っては、喧嘩になるというのが恒例となりました。

そして今回、義母が病気をして左半身不随となり、介護保険をつかって、色々
な援助を受けながら、暮らしている家に帰り、父と語り合いました。
正直に言えば、父の頑なさも、義母の病気の原因の一つかもしれないと思いま
した。もちろん、父だけが悪いわけではなく、義母にも問題があり、お互い様
ではあると思うのですが。

義母が倒れたこと、その後のさまざまなごたごた、そして、住んでいたマンシ
ョンから、バリアフリーの家に引っ越すまで、父は私には何一つ知らせずに、
すべて自分一人で考え行動しました。
八十三歳で、そんなことをやってのける父のエネルギーはすごいと思いました。
しかし、周りの意見も忠告も一切聞かず、自分の決めたことに有無を言わさず
従わせるという父のやり方には賛成できません。私に知らせれば、父にあれこ
れと意見を言い、それで大喧嘩になるのは目に見えていたのだと思います。

今回帰った時も、一人で苦労している父のためを思って、週に一度掃除をして
くれるヘルパーさんに来てもらったらいいのではと、アドバイスをしたのです
が、それを自分のやっていることへの非難だと受け止めて、激しい怒りをあら
わにする父に、それ以上何も言えなくなりました。

そして、そんなやり方が周りの人達を疎外し傷つけていることに気づかずに、
「みんなのためを思って全力で頑張っているのに、周りは逆に自分を避けてい
る。なぜなんだ。俺にはわからない。」と父は言います。
父のやっていることは、はたから見るとこんな風なんだよ、と言う言葉は今の
父には自分に対する激しい攻撃と非難としか聞こえないと思うので、私は何も
言えません。

そしてその時、以前ある友達が私に言った言葉を思い出しました。
「あなたはいつも空回りしている。もったいないよね。いい人だってことはわ
かるんだけど。」
その時は、その言葉の意味も、自分のどこがいけないのかも全然わかりません
でした。
今ここの父と同じ私がそこにいたのだと思います。自分の考えることが一番正
しいのだと信じて疑わず他者を受け入れない人です。

父が再婚した時、父と母が暮らしていたマンションの家財道具は、すべてその
ままの状態でした。狭くなると言って、父は義母が新しいものを持ち込むこと
を嫌がりました。でもそれは、母の趣味で整えられ、母の手作りのもので飾ら
れた部屋を変えたくなかったからだと思います。長年なじんだ自分にとって居
心地のよい空間に異質なものを入れたくないと感じていたのだと思います。
でも、結婚とは異質なものが出会い、ゆずりあい調和してゆくもの。若ければ
それが可能かもしれないけれど、そうでなくても頑固な年老いた父は、そのこ
とにも、義母の心の寂しさにも気づくことはなかったのです。

父は責任感が強く、弱いものをなんとしても守るのだという心を持った人でも
ありました。今回も、障害を持った義母と暮らすために、バリアフリーの家を
建て、家事をやりながら、義母の世話をしていました。
父は父なりに義母のことを思っているのです。でも自分ではまったく気づかず
に、義母を疎外してもいるのです。まさに空回りです。

父の姿を見ていて、視野の狭さ、精神の幼さを感じました。とても狭い自分の
世界しか目に入らず、他者の世界も他者の心も思いやることができない人は、
周りの人を疎外し寂しくさせ、自分も孤独になってゆきます。

私は今回、父の姿を見たことで自分もまた程度の差はあれ、そのような人であ
ることを素直に受け入れようと思いました。
「お前は、狭い自分の世界しか見えていない。」というのはパートナーにいつ
も言われていた言葉でした。そうかもしれないけど、そう言われると、なんか
悔しくて言い訳がましいことを言いたくなっていた私です。
でも、今なら、本当にその通りだった、そしてそのせいで、パートナーに随分
寂しい思いをさせてきたんだろうなとしみじみ思います。

以前の私なら、未熟で自分の姿が全然見えていない父の姿をみるたびに、激し
い怒りや嫌悪感が込み上げてきて、父を非難し責めるようなことを言ってしま
っていました。そして喧嘩になって、大声で怒鳴りつける父に対して、この人
には何を言ってもムダだと思ってきたのでした。
今回は、そうなりたくないと思った私は、父に再会するまでの数ヶ月間、ひた
すら祈りました。そして自分の心を見つめ続けました。

年老いて、ますます頑固になってゆく父の心の奥に、愛されたい、認められた
いという、幼い子供のままの心がありました。戦争にゆき理不尽な暴力にさら
されて傷ついたままの心もありました。
そしてそれは、そっくり私の中に引き継がれてもいるのです。
このことはずっと前から、頭では理解しても、心では拒絶していた私でした。
そして今回、かろうじて、父の姿はそのまま自分の姿なのだと、受け入れるこ
とができる自分になったのです。

それと同時に、素直で純粋で一生懸命な人でもある父の良い所を、心からいい
なぁと思えるようにもなりました。
子供の頃を振り返ってみると、子煩悩で、母を愛し、家族を大切に守り続けて
くれた父の姿が目にうかびます。理不尽な怒りをぶつけることもあったけれど
勤勉で家族思いで、明るい笑顔の父でもあったのです。
私は、そんな父を理想の人と思い、尊敬し、好きだったのです。
自分を知ってゆく旅を続けてゆく中でわき上がってきた、父への怒りと嫌悪感
に随分長いこととらわれていた私ですが、それがだんだん薄れてゆき、父に対
する感謝や暖かい感情が、またよみがえってきたのです。

そして私はやっと一つの自由を手に入れたと思いました。
長年私をしばりつけていた父の価値観、父の世界。嫌いながら、そうはなりた
くないと思いながら、私の無意識の言動を支配していた父の考え方、やり方か
ら自由になれると思いました。
あるがままの私を受け入れるということは、私の中に存在する父を受け入れる
ということでもあるのです。そのことは無意識のレベルで私を支配していたも
のをはっきり自覚することであり、それによってその支配から自由になるとい
うことだと思います。

今私は、どんなに正しいと思える自分の考えも、とても狭い範囲の自分の世界
の中でつくられたものにすぎないことに、謙虚に気づいている人になってゆこ
うと思います。
そして、年をとることで、頑なになってゆくのではなく、さらにしなやかな心
になり、明るく澄んでゆき、軽く自由になってゆくことを目差して生きてゆこ
うと思います。

家族とは、互いに学びあい育ちあうための出会いなのだとしみじみ思います。
そして、良い事も悪いこともすべて、心を育てるための教材なのだと思います。
父に感謝です。

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五月の後半の二週間は、日本に帰っていました。
友達に会って、父のこととか、色々なことを話せたことがよかったです。

一人の友達が年老いたお父さんの下の世話をしている話をしてくれました。
「考えてみれば、自分はそこから生まれたんだしね。」と、さらりと言ってくれ
た言葉がとても印象に残りました。

それから、以前ある友達が言っていた言葉を思い出しました。
「なんでもいい。どっちでもいい。べつに投げやりな気持ちで言ってるわけでな
くてね、こうでなければだめだってことに、とらわれないってこと。」
本当にそうだなぁと思います。自分では自由なつもりでいても、いくつものこだ
わりにしばられて自分で自分を苦しくしていることがある私です。

ということで、お釈迦様に守られている仏教国タイで、「生老病死」の苦しみか
ら解放される道を、求めてゆこう、なーんてね。思う日もあるのです。ふふふ。


今日、メルマガを発行したあとで、以前作った歌が心の中に響いてきました。
2000年に発行した、「わたしの応援歌」の中の一曲です。


わたしの歌  「天使になれたら」

それを愛と信じて 人はあやまちをくり返す
寂しい心に負けて おろかな愛を選んでしまう
あなたの為といいながら 自由を奪い 心しばる
誰かを愛することで誰かを 深く傷つける

もうそれを愛とは呼べない そんな愛は卒業したい
だから私は祈る 天使のような愛に生きたいと

もしも私が天使になれたら 見えない光になって
私が出会った大切な人を 光で抱きしめたい
もしも私が天使になれたら 野に咲く花に宿って
私が出会うすべての人を ほほえみで抱きしめたい


愛することは深い喜び 愛することは深い悲しみ
本当は一つのいのちなのに 孤独に怯えた寂しい日々よ
激しい怒りとジェラシーの炎に 心狂わせ何も見えずに
自分も人も傷つけながら 愛を求めて叫び続けた

だけどそんな私のすべてが 今はとてもいとおしい
だから私と同じ苦しみを 生きている人がいとおしい

もしも私が天使になれたら 見えない祈りになって
愛を求めてさ迷う人の 心に寄り添いたい
もしも私が天使になれたら あたたかい光になって
恐れと寂しさに凍える人を 光で抱きしめたい


NO.25 2005.7.7 <中国ブーム到来>


サワディーカ。ニイハオ!
たとえば、一目ぼれというのがあるように、一度聴いた歌が心をとらえ、忘れ
られなくなるということがあります。
私は、去年の12月に観光で中国に行ったのですが、その時、ガイドさんが流
してくれた中国の歌が、とても深く心に響いてきました。
それで、後日その歌が入っているCDを送ってもらいました。

それは、刀郎(タオラン)という人が作った「2002年の初雪」というアル
バムで、中国で聴いた歌の他にも、好きな曲があり、中国語のひびきがとても
美しく感じられました。そして、どういう内容の歌なのか知りたい、私も一緒
に歌いたいという気持ちがわきあがってきました。

その後、中国語がわかる友達に出会えたので、その人に頼んで、歌詞を日本語
に訳してもらい、さらに中国語の発音をカタカナ読みにしてもらいました。
振り仮名をつけることで、いままでどんな音かわからなかった中国語の発音が
聞こえてくるようになりました。

私はさらに、その歌を作った、刀郎という人が、どんな人なのか知りたくなり
ました。そして、刀郎の歌声に心ひかれていることなどを、気功を習っている
中国人のパンヤ先生のところで話しました。
パンヤ先生も、刀郎のCDを持っていて、さらにVCDが中国人街で売ってい
ることを教えてくれました。

そのVCDには「トルファンの葡萄」という美しい曲が入っていて、映し出さ
れる景色や、人々の姿に異国情緒を感じました。そして、刀郎のライブの様子
も見ることができました。
私が憧れていた刀郎は、1971年、四川省生まれ。ウイグル自治区のあたり
で活動をしている人です。その風貌は、田舎育ちの、飾り気のない普通の中国
人という感じです。でもその声が私の心をひきつけます。
私は、彼の歌声に、中国大陸の広々とした大地や山や空のひびきを感じます。
そして、一緒に歌っていると、そのエネルギーが入ってくるような気がします。

ということで、今私の中でちょっと中国ブームです。でもそのブームは、去年
の10月に、体調をくずしたことがきっかけで始まったのでした。
私はエネルギー不足の体を育てるために、漢方医師である中国人のパンヤ先生
のところで、気功を習ったり、治療を受けるようになったのです。

パンヤ先生は、65才ぐらいで背が高く、飄々とした感じの人です。山東省の
生まれで、山奥に住んでいる仙人みたいな人のところで修行をしたこともある
ということです。そして色々あって、15年ほど前にタイに来たそうです。
言葉がほとんど通じないので、漢字を書いて筆談でなんとなく想像するといっ
た風なのですが、私はパンヤ先生に出会った時に、いい人だなぁと感じたのと、
習った気功がとても良かったので、信頼して治療を受けることにしたのです。

そして今、パンヤ先生を通じて、中国人のエネルギーが私の中に入ってきたの
を感じます。もしかしたらそのこともあって、中国語の歌に心ひかれ、聴いて
いて心地よく感じるのかもしれません。

タイに来たときから、タイの歌を歌い、タイダンスを踊り、ムエタイエクササ
イズまでやって、ムエタイのボクサーに憧れていた私が、こんどは中国かぁ。
という感じですが、それも、必然の成り行きでした。

タイという国には、王様と仏教という中心軸があるのですが、それ以外は他国
の文化や、エネルギーを自由に、寛容に取り入れて、国を活性化しているよう
に思います。
そして、タイ人といってもさまざまで、特に中国系のタイ人が色々な場面で活
躍していて、この国には中国文化が息づいていると感じます。
私は今年になってから、土日の朝はナンさんと、バンコク市内にあるルンビニ
公園に行くようになったのですが、そこは、気功や太極拳をやる人達でいっぱ
いで、まるで中国のようだと感じました。

ということで、私達は、ルンビニ公園で本場中国の太極拳をやっているグルー
プの人達を見学していたのですが、いつのまにか仲間に加わって、立ち方や歩
き方を教えてもらうようになりました。そして、稽古の後には中国のお茶をご
ちそうになります。
そして公園からの帰りには、屋台で豆乳と、しょうがを煮て砂糖を入れた汁に
やわらかい豆腐を入れて、揚げたスナックのようなものをトッピングしたおや
つを買って帰り、家で半分ずつ食べるのが、私達の楽しみになっています。

私にとって中国という国は、よく分からない国であることに変わりはありませ
んが、バンコクに住むようになったことで、中国人と交流し、中国が好きにな
ったのは嬉しいことです。謝謝。

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7月10日から、二週間ほど、日本に行きます。
日本に帰れば、細やかで洗練された日本の波動を感じて、やっぱり日本はいい
なぁと思います。そして日本人であることの喜びを感じます。
それはそれとして、自分の中にゆったりとしたタイの波動、エネルギッシュな
中国の波動が加わってゆくことが面白くて楽しいです。

ところで今日は、七夕です。何か一つ願い事を紙に書きましょう。
そして、後は潜在意識の働きにまかせて、それを忘れてしまいましょう。
すると一年後には、願ったことが実現するとのこと。(野口整体の本より)

そして、今日の一句。 「七夕や 縁ある人に 会いに行く」


NO.26 2005.10.3 <愉気について>


週に一度、愉気の会を開くようになってから、日本に居た時に学んだ色々なこ
とを、もう一度振り返り、統合してゆこうという気持ちになってきました。
ということで、今私が思っていることを、少しまとめてみました。

人に触れることで、少しでもその人の苦しみをやわらげてあげたい。と思った
きっかけは、子供のアトピーでした。
色々なことをためして、最後に、手を当てることで治すこともできるというこ
とを知りました。その時から「気」というものに興味を持ち、「気功」を習っ
たりもしましたが、簡単にはうまくいきませんでした。

随分後になってから、その原因が、リラックスできない私の心と体のせいだと
いうことに気づかされました。わたしの心と体は、いくつもの緊張(しこり)を
抱え込み、淀みや歪み、もつれによって、がんじがらめの不自由な状態だった
のです。そして、そんな自分を駆り立てるようにして、まさに、ブレーキを踏
みながら、アクセルをふかし続けて生きてきていた私でした。

それでも私は、その時々に出会った人達の助けを借りながら、少しずつ自分の
心と体の、本来の力を取り戻す作業を続けてきました。そうした十数年にわた
る体験こそ、私に必要な学びであり、今は私の宝になりました。

私が「愉気の会」で一番大切にしているのはリラックスすることです。
この時間だけでも、色々なことを忘れて、静かに自分の息に意識を向けたり、
触れた手に感じるかすかな感覚に心を集中するようにしています。
私はかつて、リラックスして力を抜いてくださいと言われると、力を抜こうと
して無意識に力が入ってしまうという状態になる人でした。目的意識をもつと
自動的にうまくやろうとして緊張するというクセが身についてしまっていたの
です。
ということで「ゆるめよう。」ではなく、「体がゆるんでふんわりしているん
だなぁ。と、なんとなく感じてみる。」と、そんな風に工夫しました。

それから、どんな風に人に触れるかということも大切にしています。
ふんわり、そっと、やさしく包み込むように。とても大切なものに、そっと触
れるように。たとえば赤ちゃんに触れているような気持ちでいようと思います。
相手が痛みを抱えている時でも、治してあげたいとか気を送ろうと思うのでは
なく、今ここで私は、大切なもの、愛しいものに触れていると想像するのです。
すると心のなかにやさしい気持ちが湧いてきます。そして、後は「気」が自然
に流れるのにまかせようと思います。

そしてもう一つ、最近みんなで練習を始めたことは、背骨で息をするというこ
とです。いつでも、どこでも、簡単にできる健康法として、これができるよう
になると随分助けになると思うのです。
始めは何も感じなくても、根気よく練習してゆこうと思います。

私は妊婦さんを見ると、声をかけたい気持ちになります。それは、少しでも、
楽しい子育てをして欲しいと思うからです。そしてそれには、お腹の中に居る
ときから赤ちゃんに話しかけて交流することと、生まれてすぐに、肝臓に愉気
をして、「カニババ」と言われる胎便を出すことが大きなポイントになると思
っているからです。
カニババを出すことで、アトピーなども軽くなるという知識は、本当に早く知
っていたらな良かったのにと、つくづく思ったものです。

「愉気」と言うのは、誰もが当たり前にできる、当たり前のことです。そして、
練習してゆけば手が育ってきます。それは、とても楽しくて嬉しいことです。
たとえ何も感じなくても、週に一度仲間が集まって、心と体をゆるめて、人に
やさしく触れてもらう。人にやさしく触れる。そういう練習をするのは、それ
だけでもとてもいいなと私は思います。

「愉気」というものをどうとらえ、どう伝えてゆくかは人によって違うと思い
ます。私の場合は、かつて自分が無知な母親で子供達にやさしくできなかった
ことがあり、それが寂しくて悲しかったことで、こんな風に考えるようになっ
たのだと思います。
そして、「愉気」を伝えることで、子育てで悩んでいるお母さん達、これから
親になってゆく人達を応援したいなぁと思います。

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10月12日から、二週間ほど、日本に行きます。
バンコク、東京、静岡、名古屋、豊田、東京、韓国、そしてバンコクに帰る。
どうなることか予想もつかない、ハードな旅になりそうです。


NO.27 2005.12.28  <父と過ごした日のこと>

今年の5月に実家の札幌に帰った時、12月に会うことを父と約束した。
そして12月8日の夜、83歳の父は、約束どおり、飛行機を乗り継いで、一人
でバンコクにやってきた。

9日の午前中は、家族のことなどを色々話した。
そして父は二ヶ月前にころんで左ひざを痛め、一時は歩けなくなったり、左足
をかばって歩くうちに右足が痛くなったとのことだった。
それでも、なんとしてもタイに行きたい一心で、足を休めたりして、今回どう
にか無事に来ることができたと言った。
痛みはないけれど、左足はまだすこし腫れているようだった。
思わず、左足に手を当てて愉気をしたけれど、父はそういうことに慣れていな
くて、「もういい。大丈夫だ。」と言う。

それから近くの公園を散歩して、デパートの食堂でタイのラーメンを食べてか
ら、私がいつも行っているスーパーに行った。
夜には、最近出来たばかりの、タイの文化や歴史を伝える豪華なショーを見に
行った。
何でもありで面白いのがタイのショーだ。本物の象や、ヤギやニワトリなどが
舞台に登場したり、空中を天使のようなものが飛ぶだけでなく、今回は、広い
舞台の前面が深くえぐられている所に、水が湛えられて川ができ、人が水浴び
をしたり舟が横切っていったりでとても臨場感があった。
父も、心底驚き、楽しんでいた。

10日の朝は、ナンさんと三人で、ルンビニ公園に行った。
私達がいつも太極拳を習っている場所に行くと、中国人の先生が簡単な肩のほ
ぐしを教えてくれていた。
私達がさっそくためしていると父も真似をしてやっていた。
「簡単そうだと思ったけど、やってみたら難しいなぁ。これは体にきくなぁ。
今までは、中国人が朝から公園で何をやっているんだと思っていたけど、これ
はいいかもしれないなぁ。」「中国人はこうやって、色々な国の中に入ってゆ
くんだなぁ。」と、父は言った。

戦争で中国に行った父には、未だに、日本以外のアジアの国々を、後進国とし
て低く見る気持ちがある。
それは、あの時代を生きた人にとって仕方のないことかもしれない。
でも、そういう気持ちが私の中にも引き継がれていることに気づく時がある。
それが恥ずかしいような寂しいような気がして、そういう気持ちは失くしたい
と私は思う。
それぞれの国に、私達の心と体にひびいてくる素晴らしい文化がある。そして
それに触れることで、その国を好きになりその国を尊敬する気持ちが起こって
くる。私はタイに住んだ事で、それを体験できたことが嬉しかった。
言葉では伝えることのできないそのことを、私は父にも伝えたいと願っている。

11日も、朝からナンさんと三人で、バンコクから車で一時間半ほどの所にある、
タイ人しか行かないお寺に行った。
ここは林の中にあり、タイの一般的なお寺のように金ぴかではなく、体育館の
ようなシンプルなつくりで、静かに瞑想をするのにとてもいい場所である。
瞑想は初めての父は、私達がお経を唱えたり、座ったり歩いたりして瞑想の時
間をすごしている間、とりあえずイスに座っていた。

私は、タイと日本の仏教の違いについて色々話したけれど、父が感心したのは、
お寺が一般の人に対して自由に開かれた場になっていること。そしてお坊さん
がとても尊敬されていて、みんなが自発的に提供するお金や食物によって、お
寺が成り立っていること。そして土、日には、寺で食事ができることであった。

この日もお昼になると私達は、アルミの器にその日用意された色々な食べ物を
よそってから、床に座って食べた。
野菜ばかりの食事だけど、この日は運良く父の好物のかぼちゃの煮物とチャー
ハンが出たこともあって、父はお寺の食事が気に入ったようだった。
そしてタイという南国の土地ならではの、おおらかさや豊かさを体で感じたよ
うだった。

食事の後で木陰のベンチに腰掛けていると、おだやかですがすがしい雰囲気に
包まれる。
それがとても心地良くて、父もここに来たことをとても喜んでくれた。

父は、弟と母の死をきっかけに、お経をあげたり、念仏を唱えるのを日課とし
ている。
そして「できれば少しでも菩薩に近づきたいけれど、煩悩は消えないし、雑念
はわくし、どうしようもないんだ。」と言う。
私は、瞑想によって少しでも、平安な心を養ってゆくことについて書かれた本
を父に貸してあげた。
父は、その本を少しずつ読みながら「呼吸が大切だと書いてあるなぁ。練習し
てみようかなぁ。」と言ったりした。

そしてその夜、困ったことが起きた。パートナーも加わり外で食事をして帰っ
てきて、なにげなく父の足をみて私は驚いた。
左足も右足も、ぱんぱんに腫れあがっているのだ。何が原因なのか、どうした
らいいのかもわからず、不安な気持ちになる。
痛みはないというので、とりあえず、左ひざに愉気をしてからとにかく休むし
かない。
そして私は日本で愉気を習っていた野口整体の先生にメールを打って助言を求
めた。

12日の朝、メールが届いて原因がわかったことで、父も私もほっと一安心した。
メールには、腎臓か、心臓の機能が弱っていると思われるということと、手当
ての仕方がしるされていた。
私は足のことしか書かなかったのだけど、実は父は長年心臓を患っている。そ
してその機能が年々衰えてゆくことが一番の気がかりだと父は言った。
タイに来て、少し無理をして歩いたり、時に階段を上ることもあったりで、足
よりも心臓に負担がかかっていたのだ。

私は父のそういう状態を思いやれなかったことを反省して、父の体に感謝しな
がら、心臓にいいという、左足の小指の横に愉気をしたり、心臓と肝臓をあわ
せて愉気をした。
そしてこの日は、どこへも出かけずに、のんびりと過ごした。
私は自分でもできる愉気の仕方を父に教えてあげた。そして、それによって少
しでも、心臓の機能を応援できるよと言った。
それから、瞑想の練習で深い呼吸をするのも、きっと体にいいよと言った。
父は素直にそれを聞いていた。

タイに居るということが良かったと思う。もし、私が日本に行って、寺に行こ
うと誘ったり、瞑想のことや愉気のことを話しても、父は頭ごなしにそんなも
のはいまさら俺には必要がないといって受け入れてもらえなかったような気が
する。そして足の具合が悪くなればすぐに病院に行ったと思う。

足の腫れがすぐに引いたわけではないけど、そのことを心配する気持ちがなく
なったのは幸せなことだった。
父と私はその後も、パタヤに行ったり、ショーを見たりして、楽しく過ごし、
父は満足して帰っていった。

良かったなぁ。いい出会いだったとしみじみ思えて私は幸せな気持ちになった。